昭和54年1月1日 元旦祭
皆さん明けましておめでとうございます。皆さんがよく今年こそは、今年こそはというふうに、申しますけれども合楽で御信心を頂いておられる方たちは、ね、今年もいよいよおかげを頂にゃでけんと思うです。今年こそ、今年こそっち言うと去年はおかげ頂とらんごた。ね。もう考えてみると、去年も信心も出来んのに広大なおかげの中に一年を過ごさせて頂いた。今年もまたどうぞまあ、旧年に倍しておかげを頂きたいということは皆願いですけども。
今年こそは、今年こそはというのは、もう毎年同じことを繰り返しとるような感じがするんです。そして、旧年はなんにもおかげを頂いていなかったように思います。去年がもうしだござじゃったと言ったようなこと(笑)だから、今年こそはと言う。これは私は、合楽の方達には、んー、ふつりあいな事だと。今年こそはという。ね。今年もどうぞ旧年に倍しておかげを頂かしてくだされということでなかならければならない。
もうほんとにね、お礼を申させて頂いておりますとね、もう限りがない。ね。それこそ三代金光様の50回の言葉じゃないですけれども、ね、おかげを頂いて、ね、もう有り難うして、有り難うして、ということである。ね。そのお礼の足りぬお詫びばかりをいたしとりますとおっしゃる。私は昨日の前夜祭にそのことを頂きましてね、改めて金光様のお礼、またはお詫びの素晴らしい事も徹底しておる事。言うならば御礼お詫びの手本見本のようなものであると思わしてもらいました。
ね。言うならば私共もです、もう有り難うして、有り難うして、信心も出来んのにこのようなおかげを頂いて、ね、今日を迎えさせて頂いたと言う事を思えば思うほど有り難い。その有り難いのにどれほどしのことが、信心が出来たか、お礼が出来たか。そのお礼の足りぬお詫びばかりをいたしております。これが私は、合楽のご信奉者の皆さんにいうならぴったりときたお詫びであり、お礼であると思うんですけどどうでしょう。
いや、私はそげんおかげ頂いとりませんと言えれる人があるだろうか。私はないと思うです。ね。問題がおかげをおかげに気付かないのです。そしていつも,頂きたらんごと思うとる。それで、今年こそは、今年こそはというような、言うならばふらちな思いやら、表現になってくるんじゃないかと思います。信心はそういう大事なところを分かり、大事なところをふんまえてお礼を申し上げるところはお礼を申し上げて、お詫びをさしてもらうところはお詫びをさしていただかなければいけない。
昨日、前夜祭を、えー終らして頂きましてまたほうしを付けてここへ出てまいりました。上野先生が、お礼に出てまいりました。親先生今日はもう体がきつうして体が痛むんですね親先生。でも今日は前夜祭でもありますけれどもご無礼をして休ませていただこうかと思うておるところに、上野先生と名指しでお電話がかかってきた。神戸の天野さんって言う方から電話が。
この25日の感謝の夕べにあちらから参拝を、年末のお礼をかねて参拝のおかげを頂いておりました。もう大変な持病を持っておられる方でしたが、ね、帰らして頂いて、ね、今日も昨日まで、全然持病が起こらない。忘れたように良くなっておるのに気が付いて、とにかく親先生にこの事をお礼を申し上げていただかないと今年が越せないような気がいたしますので年末お忙しいところでございましょうけれどもと。そのことのお礼のお届けがあった。
もうその喜びの実感が上野先生に伝わってきた。そしたらもう、また引き続いてこうな港の何とかさん。から電話がかかってきた。これもやはり上野先生に名指しでかかってきた。いつも( ? )な時には上野先生にお取次ぎをお願いして下さい。上野先生( ?)こちらはご自分のお母さんがね、脾臓癌でもう医者はもう難しいと言う。これに食事が頂けないからもういよいよ難しいと言う事で、いうならさじを投げられた。
その時点でお電話でお願いに来なければなりませんけれどもと言うて、上野先生を通してお願いがおっておった。何回も何回もおかげを、お届けがあっておりましたが、昨日のお電話では、おかげでこのもようなら助かると医者が言うております。と言うのである。ね。もうそれこそ湯水も通らんという状態であったのが、ね、少しゆうどう食が頂けるようになり、そして、この頃あれが食べたい、これが食べたいと言うようになってきた。中でイチゴが食べたい、イチゴが食べたいと言うけれども田舎の町のことですから、町辺りに出ればありましょうけれども、そのイチゴを何軒も探したけれどもなかった。
ね。それでイチゴとそのー、言うておるところに主人がお勤めから帰ってみえて、あらお母さんおかげ頂いたぞ。お前がイチゴ、イチゴって言いよったが、僕んとこの会社の人が、もう全然お母さんが病気ってなんか知らん人がね、私の方でイチゴを作ったらこんなに綺麗に出来たからお母さんに差し上げて下さいと言うて、そのイチゴを持ってきた。それでもうその、頂いたからすぐそれをもってそのお家に帰ってこられた。まあそれを見た時に喜びというものは、もうお母さんがもうほんと喜ばれた。
そして頂かれるのは一つしか頂かれなかったかれども、それから他のものの言うなら、この物が頂けれるようになる。そして、医者がこのもようなら助かる。というようなおかげを頂いて、その言うならばお電話での話のもようがちょうど天野さんからの電話がかかってきたと同じような状態である。同じような口調で、同じような事柄である。ね。この事をとにかく親先生に、お忙しいかと思いましたけれども、このようにおかげを受けておる事をお伝えして頂かなければ今日が、いうなら明日の正月が迎えられない。
というようなおんなじようなその、有り難いのが電話線を伝わってこれで響いてくる。不思議なもんですなあ。もう電話を受けておる方が感動した。ね。そして今まで寝らなければなるまいと体中が痛かったのがおかげを頂いてね。もうとにかく有り難い、有り難いになってしまった。神様にそのことをお礼申さしていただいとりましたら、一年中の言うなら、告ぎ越し方の事を思わして頂いたら、もうお礼を申し上げる事の多い事にいよいよ改めて気が付いた。あれもおかげであった。これもおかげであった。
あそこではああいうお粗末ご無礼なことでございましたことにもかかわりまぜずにこのようなおかげを頂いて(笑)おかげで、このね信心のおかげって言うのは、真に有り難いと思う心が( ? )みかげの初めとおうせられますが、真に有り難いということはそういう事じゃないでしょうか。言うなら母体中の血が、言うなら引いてしもうてそして、新たな血が入れ替わったかのようなものであった。
そのことをもう心から上野先生へのお礼を申さしていただいておりました。ね。有り難い。ね。ですからね、私共がその有り難いというものに触れきっていないんです。それであれもおかげであった。これもおかげであった。一年の事を振り替えさせて頂いたら信心もね、お心にもかなう信心もよう出来ませんのにもかかわりませずこのようなおかげを頂いてまいりましたということ。
そこから、心からお詫びもできる。心からお礼を申し上げる。それこそ有り難うして有難うて、ね、そのお礼ばっかり。そのお礼の足りない。それこそお詫びばかりをいたしておりますということになってくるんです。ね。ですから合楽の方達の場合は、ただ気付いていないおかげを受けておるけれども、おかげをおかげと気付いていないところから実感言うなら有難うて有難うてもなかならければ、ね、そのお礼も足りない、お詫びにも気付いていない。
特別悪い事をしてからのお詫びとか、特別な事を頂いたから有り難いというおかげではなくて、ね、思うてみれば思うてみるほどおかげを頂いておる。ね。私は今朝から今日は皆、修行生と一緒に共励殿でもういっぱいでぎっしりでした。若先生から来年、もうあの新館でこれはもうおとそ頂く( ? )いけませんなと言う。いっぱいでした。それでまあ、皆さんにおめでとうございます言うてから、今年もね、もういよいよ、もういよいよ生神を目指す以外にないよねと。もうこれが私の今日は挨拶でした。
もうほんとに、お道の信心さして頂く、合楽でご縁を頂いておる方たちは、いよいよもって合楽理念をいよいよ自分の物にさして頂く。その手立てが言うならば、その焦点が生神を目指すと言う事なんです。先日から、んー、二・三日前でしたか、国鉄から表彰を受けました。合楽教会。若先生の名前を出しておりますから、大坪勝彦先生宛てに表彰が来た。で、こんな大きな箱の記念品が、今朝からそれをあけて見ましたら、もうそれこを見事なその、あちら風の時計でした。
どうして国鉄からならご褒美を頂いたり、賞状を頂いたりしたかと言うと、毎年御本部参拝、国鉄を利用さして頂くと言う事。国鉄の収入に合楽教会が寄与されるということに対しての感謝状であった。ね。私共、信心してね、徳を受けるというが、信心すれば誰でもお徳が受けられる。みてるということがない。あの世にも持って行け、この世にも残しておけるという。
ところが実際は、なかなかおかげを受けておられると言う教会、お徳を受けておられる信者、教師と言う人は極少ない。ああ、あれがお徳だろうかと思うておったら、ね、亡くなられたとたんに例えば教会が寂しくなったり、ああ、お徳を頂いておられるところにしてはちょっとおかしいなと思うようなことが起こったり、ね、あったりしておるという事実を思うてみてです。教祖様は嘘をおっしゃっておられるのであろうか。
今朝からの御理解、御理解百節でした。「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというのではないか。」というまあお正月向きの御理解ですね。わざわざめでためでたがあるから私は100節を言ったわけじゃないけれどもちょうどそこを頂いた。ね。此の方生神金光大神はいよいよ子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃと。教えておられる。その子孫繁盛家繁盛の道をね、分かりやすく説いたのが合楽理念です。
誰でも分かりやすく説いてあるのが合楽理念です。だから、合楽理念をね、行じていかなけきゃだめなんです。もうこれを行じていっていただくおかげこそが御神徳であろうかとこう思うんです。ね。例えば、ごうしんがあったり、いろんな教会に出来事があったりいたしますと、ね、さあそのことによって一徳受けようと。といったようなことを私共に言っても来た。聴いても参りました。なるほどおかげも受けられます。
ところがそれは、御神徳じゃないことを分からして頂いた。ね。御神徳を受けるということは、神様のご信用を受けるということは、もう結局はぎりぎり生神を目指すと言う事なのです。和賀心をきじゅくにしてと言われます。いよいよ和賀心をきじゅくにして、ね、すべてのことを和賀心で頂き、受けれれる稽古なんです。ね。そこに付いて来る信用が御神徳です。
一生懸命の修行が出来た。お参りが出来た。ね。沢山のお供えが出来た。それはねちょうど国鉄さんに寄与したようなものです。だから、感謝状をもろうたり、それこそりっぱなお時計を頂いたようなものなんです。それを、私共はお徳をいただいておるように間違えておった。お徳を受けるということはそういうことじゃない。もうどこまでも、生神を目指すと言う事。ね。
言うならその生神の神徳、神格というものが高度なものになっていくということ。ね。もう30年も前に、福岡の教会に毎日日参をさして頂いて、お参りをさして頂いたら誰もお参りがあっていなかった。お広前のここで、私いつも正面のここで、それこそもうほんとにびっくり、大きな親城が崩れるような大きなおいさみを頂いた。誰もおられない。びっくりするほどの。もう有り難うして有り難うしてたまらんものですから一生懸命神様にお礼を申し上げておったら、ね、教祖百年祭を目指してのこう、言うならば一線上にずらーっとこう7・8人の方達がならんでおる。ね。
そしてこの、まあヨーイドンでこう走ると。それを百年祭を目指して走るというような感じで頂いた。ね。もう百年祭が後まあ4・5年ですか。ね。もう三十数年前私に神様は、言うならば囁きかけておられる。この一線上に立った、7・8人の人達が言うならば一番を目指して、言うならそれは( ? )さず日本一を目指して走るんだが、ね、この選手の中に選ばれておるということをその時頂いた事がある。ね。ところがなかなかもって、選手に選ばれたと言う事だけでも有り難い。そういうようなお知らせを頂いてでした。ほんとにお前はおかげを受けておるぞと。信心も出来んのに。小倉の桂と言えば桂が出てくる。ね。久留米の石橋と言えば石橋が教えてくれる。三代金光様と言えば三代金光様がいろいろとお知らせをくださる。
四神様といえば四神様。もうほんとにお前のようにおかげを頂いとるものはないぞと。ね。もうまったくそのとおりである。もう有り難うしてこたえんときですから。ね。もうほんとにもったいない。私のように不徳の者が、信心も出来ない者がこのようなお徳を受けてもったいないをいうお礼を申さしていただきましたら、ね、お前の頂いておるのは、ね、頂いておるのではない。神が貸してあるのじゃとおっしゃる。
もうほんとにそりゃあ、もうその場でそれどこじゃございますばいと思うた。信心も出来んのに。ね。いうようなそんな高いお徳を受けられた御霊様が話しかけて下さったり、四神様とか三代金光様が、三代金光様はまだご在世中でしたけれども、私にお知らせを下さる時には、もうあのそのままのお声でお知らせをくださりよった。ね。ほんとにこげな勿体無い話はない。こんな有り難い事はない。こんな信心も出来んのにお徳を頂いて有り難いとお礼を申さして頂いたらお前が頂いとるのではない神が貸しとるんだと。
そりゃそれどこじゃありますまい。とても私が信心で頂けるはずがありませんからと申し上げました神様がね、その方が一生借り続けます。(笑)( ? )。ね。一生借り続ければその方のもんじゃとおっしゃる。私は初めてそれが、そのことがです、ね、その信心をすれば神徳を誰でもが受けれると言う事をです、ね、それは御用が出来たからとか、ね、力を受けたと言う事が御神徳ではない。
御神徳というのは、ね、どこまでも神様のご信用であり、ですから御用が出来た。一生懸命お参りした。一生懸命にお役に立たせて頂いたというのは、国鉄が合楽に感謝状を送ったようなものであって、時計のご褒美をくださったようなものであって、それはお徳ではない損得限り。それをだから頂いたもの国鉄がもうあの感謝状返せって言うて来ることはないです。
けども、お徳というものはです、私は思うのにお徳というのは一生借り続けなければ自分のものにならないものだ。だから隙も油断も出来たものではないということを思うのでございます。ね。そしてその御神徳を受けるということは、いよいよもって私共がね、生神を目指すということなんです。ね。それはもう誰でもが目指されるのです。ね。私共が頂いておるいわゆる生まれると同時に頂いておるところの生神の芽、言うならば天地金乃神様のいうなら親神様に対する氏子と、または神様の子供としての生というものを受けておる。頂いておる。
それが分かりませんから信心の事も分からん、生神の何、誰かも分からない。ね。それが言うならば汚れに汚れに果てて一生が終っていくような結果になっておるというところを、この度金光大神を差し向け願う氏子におかげを授け理解申して聞かせ、親も立ち行き子も立ち行く世界の顕現とはなることをね、天地の親神様の願いであることを金光大神を通して教えてくだされた。
神も助かり氏子も立ち行くと言う事は、ご褒美を頂いた、商売が繁盛した。いや健康になった。というようなことで神様がお喜びになるのではない。それで神様と交流するのではない。神も助かり氏子も立ち行くと言うのは、ね、それこそ神様の助かってくださる事に寄与される力を頂にゃならん。それを御神徳と言う。ね。神様と同質のものである。言うならば神の足にも手にもならして頂ける為には、いよいよ私共が生神を目指さなければならない。
心に生神の芽を持っておる。その生神の芽を育てると言う事が、ね、楽しゅう、有難うしかも愉快に育てていこうと言うのが合楽理念である。ね。しかもこの言うならば基礎というか基本が身についたら、なら私共が魂の世界に入らして頂いてもやはり魂を清める事いよいよ生神を目指しての精進を、魂、御霊ながらすることでしょう。ね。だからここのところだけはどうでも覚えとかなければならない。お道の信心をするならば、この一線上にだけは出ておかなければならないということでございます。
そこで、生神を目指すと言う事は、もういよいよ土の性になる以外にはない。水の性になる以外にはない。ね。これがまた、難しいごとしてから楽しゅうしてからみやすい。黙っておけさえすりゃあ分からん。ね。どういう場合であってもいうなら土の心を持ってと生神金光大神様を根にさしてもらう。ね。今こそお土をかけておる時である。いよいよ素直に、水の心を心としての言うならば信心。もうとにかく純粋、素直になるということに精進さしてもろうて、ね、それこそ丸い器に入れば丸くなり、角い器に入れば角くなり、しかもそれが溜まりに溜まって一つの水圧というような力ともなり、もう何をもこうすることの出来ないほどしの力があることがわかってまいります。
もう、これ以外にはない。ね。そういう信心をです、いよいよみやすう、いよいよ楽しゅう、ね、愉快なものにすることの為にあらゆる手立てが説いてあるのが合楽理念であり朝に夕に頂くところの御理解なのです。ね。皆さんどうでもひとつ、ね、今日修行生の方達に申しましたように今年はもういよいよね、生神を目指す以外にはない。その目指す手立てを日々新たなこととしてご理解に頂くのです。
そういう稽古をさせて頂いての一年間。昨日4時の御祈念に、んー、お礼を申さしていただいとりましたら、この位の高さにこう口から水がこう吹き出ておるところを頂いた。そんなところがありますよね。この辺にもあります。この辺にも。大変この水が豊富なところがあるですね。言うならば合楽のお広前は今年はそういう年柄である。くまねばならんとか、ね、引っ付かなければならんというわけではない。( ? )ても言うならば自然に水が湧き出るような時である。
だから、( ? )だけでなくて、ほんとに受け物をいよいよ作くらなければならないとこう思うです。次に大黒、大黒様がね、もう大判、小判を体一面に散りばめたようなあの大黒様を頂いた。もうほんとに大判、小判がもうそこに( ? )しておるような感じ。ね。ところがそれはそのそこに落ちとるというわけではない。大黒様の体に付いとるとじゃから。
そして、私が頂きましたのはあの、昔話にございます、花咲じじいの事でございました。ね。犬を殺されても、ね。臼を割られても、杵を取り上げられても、ね、それを黙って言うならば辛抱し、抜かして頂く。そこに大判、小判がざくざくというおかげも、枯れ木に花が咲くようなおかげ。もういよいよ徳の世界なのであります。ね。ああー、臼を割られたり、杵を取り上げられたりということはもう大変にきついことなんです。ね。人間としてこんなに苦しい事はないと思うぐらいにあるけれども、ね、そこの辛抱が出来てこそ初めてお徳の世界に入る事が出来る。枯れ木に花が咲くようなおかげも頂かれる。大判、小判がざくざくというようなおかげが頂かれるのです。
だからほんとに、辛い、苦しい時には三代金光様じゃないけれども、泣く泣くでもそこを生神金光大神をお供えさして頂いて、辛抱し抜かせていただいておるうちに辛抱しておって良かった。言わずにおって良かった。土の信心を頂いておって良かったということになるのです。ね。私はお徳というのはね、そういう信心から頂けれるんだと。ね。だからなるほど教祖の神様が信心をすれば誰でもおかげが受けられるというのは、合楽が誕生して初めて合楽理念を発表して、合楽理念を持ってするならば誰でもおかげが受けられるということならば、誰でもが説明すればわかるのではなかろうかと。
金光様信心すれば誰でも受けられると言われるけども、誰でも事実受けていない者の方が ほとんどじゃないか。というほどしに難しいものに見えておったけれども、合楽理念を持ってするとそれを目の当りにお徳とはかくだと、またそのお徳を受ける為にはなるほど、場合には臼を割られ、杵を取られたり、犬を殺されたりということもあろうけれどもね、殺された時に、割られた時にです。ね。そこんところを私共が生神金光大神に御すがりをして、上野先生じゃないけれどももう今日は寝らなたまらん、前夜祭であるのにあいすまんけれども寝らにゃたまらん。という時であってもそういう気でおると神様が上野先生を名指しでね、同じようなお届けがあった。
天野さんから、いうならこうのみなとのそのご信者さんから、もうそれがあまりにも同じ言葉であったのでとてもこれは天野さんじゃない、ね、このあの方ではない。神様がこの方達を使うて私にこういう生き生きとした喜びを与えてくださったんだとわかる。今まで苦しいと思うておったことがです、それこそこの血が入れ替わったかのようにして有難うなってきた。
辛抱の出来ない。という時でも、ね、私共がその気でおると神様が前後に御都合、お繰り合わせを下さって、まあ、あん時はようもほんとにあんな辛抱が出来たともんだと思うくらいに出来るんです。問題はそこに一心発起することなんです。ね。そこにはね、それがみやすう後で考えてみると、ほんとに神様のおかげを頂いてあの辛抱が出来たというおかげを頂いて、しんごうの徳にもならしてもらう。
そうして、いよいよいわゆる生神を目指さして頂く事になるのです。ね。合楽の方達はね、今年こそはどうでんこうでん一著おかげ頂くことをお願いしてくださいじゃなくてです、ね、今年もどうぞ旧に倍したお繰り合わせの中におかげが頂けますように。ね。そして今年も、今までもおかげを頂いておることをまずは気付かしてもらい、分からしてもろうて、そのことのお礼が繰り返し繰り返しお礼を申してもお礼を申しましても足りませんのじゃ。その、お礼の足りないお詫びばかりをいたしておりますという心で、ね、今年という年はね、いよいよ有り難い年になってくるのじゃないでしょうか。
合楽で言うならば、日参、きょうちょ、そして心行、家業の行と。今日の御理解を頂いて、ん、今日はこれで行こう。それが心行の始まりだと今日頂きました。ね。そして、家業の行、それをそのまま家業を行として頂かしてもらう。日参、きょうちょう。ね。毎日言うならば、ね、おかげの泉を繰り返し読もうもよかろう。そして感じたところを今日の信心の支えとするもよかろう。毎日ご理解をテープに入れて頂いてです、ね、家族中でそれを頂いて、今日はここを頂かしてもろうてという、教聴とはそういう事。
教えがいつも芯になるということ。日参と言う事は、皆さん工夫をなさならければでけんのです。ね。先日、教典感話こっから出ておりますのを毎日私はあのー、暇があるときにはあれを開いて見てるんです。丁度開いたところに、えー私がある方にお取次ぎをさしていただいたことがその日のあれに出ておった。どっか遠方に移転をされる方らしい。だから今までのように毎日日参が出来ません。ね。ですからもうこれから月次でんかしかお参りが出来ませんけれどもというお届けだったらしいんです。
それに対しての御理解がね、足元におっても参ろうと思わなければ参られませんというご理解である。参ろうと思わなければ、足元におっても参られんのです。ね。( ? )なんかは10年間福岡から毎日毎日毎日日参してくるじゃないですか。参ろうと思えば出来んことはないです。ね。それは余りものの信心じゃとまあ、めいめいに感じるならばね、もう日参をさして頂いておるつもりで信心、言うならば日参的私は信心。日参的きょうちょう。そこはね、だから合楽にご縁を頂いておるもうすべからくのご信者さんがここん所には本気にならなければいけないと思うんです。
もう、私毎日の御祈念の中に日参、聴教、ね、そして心行、家業の行。もうこの生き方でいきゃあ必ず日勝り月勝り年勝りのおかげが受けられると。おかげを受けたらそれをいよいよ信心の真を持って現していくという生き方になればです必ず代勝りのおかげになる。御神徳が受けられる。貧争病のない真善美に輝かんばかりの世界に住むこともね、よういに出来るんだと。為にはまず日参、教聴、心行、家業の行だ。これがね、例えば、どこに( ? )おってもです、それが出来るような工夫を皆さんがされなければだめなんです。 ね。昨日、徹美先生が夕べ、一年以上のお届け帳をお供えしてございました。ね。36万2千かね。丁度、去年より去年の今日よりも昨日よりも4万人お届け数が増えております。毎年何万ずつか増えておる。ね。合楽で言うならば日勝り月勝り年勝りのそういうひとつ、親先生はあげん言うなさるばってん教会はいっちょん繁盛しよらん。というんじゃないでしょうが。ね。それと同じ言うならお初穂も同じ沢山なってきよる。ね。もうすべての点がそうなんです。
ですから、皆もおかげが受けられる。言うならば同じお徳の船に乗らせて頂いておるのであるから、ね、皆がその気になればもう合楽全部と言うと大ばあですけどね、私、合楽全部の方がですね、これに基づく、いうなら合楽理念に基づいての日々の信心生活をですもう、いよいよをもって身につけなければいけない。そういう言うなら今日( ? )言うと( ? )はね、平気に生神様を乱すことだよということになるのです。
もうこの生き方ならば絶対御神徳が受けられる。これは御褒美じゃない。感謝状じゃない。いや、頂けるというか、神様が貸して下さるんだ。そしてそれを大事に大事にしよる。借り続けたら貴方の物だ。あの世にも持って行け、この世にも残しておけれるんだ。言うならば、日勝り月勝り年勝りのお陰を頂いて、その年勝りのおかげが、ね、信心の真に現されて代勝りのおかげ。ということになっていくのだ。
代勝りのおかげになれるんだ。その実証をね、合楽はしていかなければならないといふうに思います。先日、光昭が申しておりましたが、ね、お互いが信心さして頂いとってこれでよいということがあろうはずがありません。いつも。ああここは、これがいかんなと気付くという事がそのままお徳を気付いて行くことですと言うております。私それを聞いてからびっくりしました。ね。ほんなこっちゃと気付いたらそれを改めて行くという事がお徳を気付いて行くことだと言うております。
私共が信心さして頂いて、ほんとに合楽にご縁をいただいておるということがほんとに幸せを感じる。有難いと感じる。合楽の人の場合は、今年こそはという言葉はない。ね。今年もである。ね。とにかく合楽に御神縁をいただいて、金光様の信心を頂いておるということをです、本気でご神殿に出るたび、柏手をするたんびに幸せを感じれる信心になんなければいけない。4つの拍手をうつという事は( ? )をあわせるということだとこれは光昭が言っております。
幸せ、これを4つあわせるときにほんとしみじみ合楽に御神縁を頂いておる事がもったいないとわかるということをです、幸せを感じさせていただいて、ね、次の願い、次の祈りになっていかなければならないということでございます。ね。今年もひとついよいよね、より本当の信心を身につけていきたいと思います。どうぞ。